中での生活では・・・
希望者は3ヶ月に一度、面接を受けることが出来ました。
【篤志面接】と【個人教誨】
篤志面接というのは、就業や中での生活の悩み事の相談に乗ってもらえ、個人教誨は、教誨師の方に、宗教的な教えや、教えを説いてもらえ、それぞれボランティアで外部の方が施設に来て会って下さいます。
グループ教誨といって、お一人の教誨師の方に、複数人でお話を伺うような機会もありました。
私は、とくに信仰している宗教などはないのですが、御先祖様やお墓が浄土真宗のようで、浄土真宗の教誨を受けていました。
この面接が、私にとっては本当に大切な時間で、3ヶ月に1度なので、1年に4回しかお会いする機会がないのですが、同じ先生を指名させてもらい、ずーっと色々とお話をして頂いてました。
個人教誨の先生には、私は
【罪を償う】
ってどういうことなんだろう、というのをとにかく伺っていました。
中では、罪を償う、という言葉はよく聞かれる言葉ではあったのですが、じゃあ実際に、
「私は罪を償います、償いたいです」
と言って、実際に何が出来るのか、どういうことなのかが本当に理解できているのかというと、大きな疑問です。
自分なりに考えて、中の生活で出来る限りのことからまずはやる!
という考えで生活していましたが、この個人教誨で先生に思い切って聞いてみたのがきっかけとなり、4年間、沢山の話をして頂くことができました。
その中で、とくに強く印象に残っているお話が、
【いのち】
について。
漢字で書く【命】は、お医者さんにお願いする命・・・
対して、宗教の世界のいのちは、ひらがなの【いのち】
この、頂いたいのちを、思いき燃やす。
テレビなどで活躍している人の目は、輝いている、これはいのちを燃やしているからこういう輝いた目になる。
冨江さんの今の目は、正直少し、元気がない。
でも、おそらく、サッカーの仕事をされていた時の目は、とても輝いていたのではないか。
ここでの生活でも、目を輝かせて、いのちを思い切り燃やして生活することはできるんじゃなか。
冨江さんが、大切ないのちを目一杯燃やして、輝く目で生きていくことが、償いの一つになるのではないか・・・
そんなお話をして頂きました。
先生には、何度も泣かされましたが、本当に感動し、感銘を受けました。
まだまだ、語り尽くせませんが、少しずつ、自分に言い聞かせるつもりで、先生から頂いた大切なお話もここで共有させて頂ければと思います。
25.楽しんで学ぶ
(ニーチェの言葉)
たとえば、外国語を学んでまだ少ししか話せない人は、すでに外国語に通じて流暢な人よりも、外国語を話す機会をとてもうれしがるものだ。
こういうふうに楽しみというのは、いつも半可通の人の手にある。外国語に限らず、やり始めた趣味は、いつも楽しくて仕方ないものだ。
けれども、そうであるからこそ、人は学ぶことができる。つまり大人であっても、遊ぶ楽しさを通じて何かの達人になっていくのだ。